葬儀の弔辞
葬儀に参列させていただく際に、とても心が温かくなる瞬間があります。
それは、友人代表が弔辞を読む場面です。

親交の深かった友人が遺影に向かって、亡くなられた方への敬意と、残されたご家族への慰めの思いがいっぱいつまった言葉を語るのです。
「今、あなたは天国で大好きなお酒を飲み、趣味だった音楽を奏でておられることでしょう。私もまもなくそちらに行くので、それまで温かく見守っていてください。」
病気や人間関係、重い責任からようやく解放されて、天国で大好きなお酒や趣味を楽しむ。
また、地上に残された最愛の家族や友人を天国から見つめながら、時に特別な力で彼らを守る。
もし、本当にそのような素晴らしい世界が待っているなら、苦しいことばかりの人生を終えて、私もすぐにでも天国に行ってみたいものです。
小さな違和感
でもフッと、小さな違和感を覚えるのです。
それは、天国から家族を見守り続けるというのは、本当に幸せなことなのだろうか?ということです。
死んだ私が、地上に残された妻や子供たちの行く末を上から見下ろしていると仮定した場合、私が日々目にする光景は、もしかしたら愛する家族が悩み、苦しみ続けている姿かもしれません。



それをただ見ていなければならないのだとしたら、とても苦しいことに思えてしまうのです。
せっかく天国に来たのに、妻や子供たちの涙を見続けなければならないなんて、私には耐えられそうにありません。
そうは言っても、死んだ後の世界について正確な体験談を語れる人は、残念ながら一人もいないのですから、そんなことを今から心配しても何もならないかもしれません。
しばらく休みなさい
聖書には、死後の状態について次のように書かれています。
『生きているものは、少なくとも知っている 自分はやがて死ぬ、ということを。しかし、死者はもう何ひとつ知らない。彼らは・・・その愛も憎しみも、情熱も、既に消え失せ 太陽の下に起こることのどれひとつにも もう何のかかわりもない。』(伝道の書9章5、6節)
人が亡くなった瞬間、意識・記憶・意志やすべての感情が完全に停止するというのです。
それはちょうど、私たちがぐっすり眠っている時と同じ状態です。
つらい人生の荒波を乗り越えて亡くなったすべての人に、神様はひととき、ゆっくり休むための時間を与えてくださるのです。
「がんばってよく生きたね。しばらくの間休みなさい。」と。
世界の災害や残酷な事件、悲劇などを目にする必要はありません。
すべてのものから解放されて休むことができるのです。
私にはこの約束が、亡くなった者に対する神様の心優しき配慮であると思えてなりません。
死は天国への待合室
多くの殺人事件に関わった一人の死刑囚が次のようにつぶやきました。
「人はみな死刑囚。生まれて 生きて 死んで たったそれだけ。」
人生には何の意味もない。死んでしまえばすべてが失われてしまう、と吐き捨てるように言い放ったのです。
しかし、決してそうではないと聖書は言っています。
「墓の中にいる者たちがみな神の子の声を聞き、善をおこなった人々は、生命(永遠の命)を受けるためによみがえり、悪をおこなった人々は、さばきを受けるためによみがえって、それぞれ出てくる時が来るであろう。」(ヨハネによる福音書5章28、29節)

人は例外なく『死』を経験します。
しかし聖書には、神様が私たちを天国に連れて行くために再びよみがえらせてくださると書かれています。
神様を信じる者にとって、『死』は出口のないトンネルに入るようなものではなく、苦しみや悩み、痛みのない麗しい天国に入る直前の待合室のようなものだというのです。
人を創造された神様だけが、本当の死後の状態をご存知です。
私は聖書に書かれた神様の言葉を疑わずに信じています。
神様はこの世界を造られただけでなく、人に命を与え、今日も生かしてくださっているお方だからです。
この世を去る時に、あなたならどちらの言葉をかけてほしいでしょうか?
「生まれて 生きて 死んで たったそれだけ」ですか?
それとも「がんばってよく生きたね。しばらくの間休みなさい。」 でしょうか?